読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

黒髪少女の言葉

もう少女とは呼べない。twitter @aoi_ouen

お花の刺繍が入った洋服を手に入れたい

f:id:naoppsan:20170329184206j:plain f:id:naoppsan:20170329184246j:plain f:id:naoppsan:20170329184322j:plain スケッチブックに洋服のデザインを描く。別に、デザイナーを目指している訳ではない。お花の刺繍が施されている洋服が、流行っている。刺繍は最高にときめくのだ。可愛いものは、可愛い。沢山欲しい。いっそ刺繍を習ってしまいたい。

gathery.recruit-lifestyle.co.jp

ZARAのデザインは、最高に心を擽られる。しかし私は、ZARAの店舗に漂う雰囲気に馴染めない。海外ブランドだけあって、大人でモードな感じが、少し背伸びした子供のような気分になってしまうからだ。店員も何故か気の強そうな人が多い、というかそう見えてしまう部分もある。ZARAが似合うカッコイイ女とは、ほど遠い。そんな私の劣等感から来ているに違いない。

映画「おんなのこきらい」やっぱりかわいいには価値がある

 

 

f:id:naoppsan:20170325184340j:plain

 

 

 

「可愛い、可愛い、可愛い。女の子はそれだけで生きていけるのです。生きる価値があるのです。」

 

 

女の子なら一度は思った事がある。かわいいから許される事、この世の中には、うんと溢れている。可愛い女に生まれたかった。森川葵演じるOLキリコは、女の価値は「可愛いことが全て」と信じて生きている。男にはちやほやされるが、女には嫌われてしまう。そんな子、周りに必ず一人は居る。私は可愛いを貫く、そしてあざとさ全開の女の子が大好物である。女のあざとい部分を、前面に押し出して生きてける子、醜いけど、それが許されるのだから、羨ましいと心底思う。自分のかわいさを自覚していて、したたかで、最高だ。

 

綺麗に巻かれたロングの髪と、男受けしそうな可愛いお洋服、男を引き寄せる仕草、そんなかわいい女を纏いながら生きるキリコ。キリコにとって、お菓子、ケーキやマカロンも、自分自身の「かわいい」を構成する対象だ。食べては吐くの過食嘔吐を繰り返す。勿論、食べ物だから太るが、吐いてしまえば同じ、そんな考えである。表面的な可愛いは作られないが、体の中にかわいいものを詰め込んで体の一部にする。

 

仕事で出逢ったコウタは、キリコのあざとさを見抜いて見向きもしない。そんな素っ気ない態度を取る。俺は他の男とは違う、と。木口健太のどことなく影のある、イケメンっぷりも凄い。キリコが想いを寄せているbarで働くユウトとは、友達以上恋人未満の関係。新入りで入ってきたバイトの女の子に簡単に寝取られてしまう。いくらキリコが可愛くたって、本当に手に入れたい物は手にする事が出来ない。男は本当にバカだ。

 

失恋してメンタルがボロボロになり、長い髪をザクザクと切り落とし、泣くキリコの元に、コウタが現れる。過呼吸に陥る彼女の背中を、そっとさすってあげたり、ただ黙って一緒に居てくれるコウタの優しさが染みるし辛すぎる。一番見られたくない、惨めな女の汚い姿を表現していた。失恋した女ってあんなもんだ。キリコにとって長い髪は、可愛い、の象徴だったに違いない。ショートカットになった彼女に「可愛い」と言ってしまうコウタは、本当にズルい男だ。これは好きになってしまう。ドン底にいる時に差し伸べられる優しさは、強いし凶器ともなる。

 

鍋の材料を買ってコウタの家に行くと、コウタの彼女と鉢合わせ。しかも自分とは真逆の、落ち着いていて優しそうな彼女だったからこそ、余計に傷ついたのだと思う。耐えきれずに家を出たキリコに、コウタの彼女は「追いかけなくていいの?」と。これは女であるからこそ出た言葉だと。女の面倒くささが、女である彼女には痛いほど分かるから。私の好きなシーンのひとつだ。

 

彼女がいるくせに、ドン底にいたキリコに「かわいい」と言った。可愛いが全ての彼女にとって、嘘でも言ってはいけない言葉だ。キリコに向けられた「かわいい」は、コウタにとって愛だ。家族に対して向けるような愛、人間愛。好きな人から言われる「可愛い」と、別の不特定多数から向けられる「可愛い」は、全然価値が違う。可愛いの意味も異なる。

 

失恋を繰り返して生まれ変わってゆく。そんなキリコは、客観的に見て、やっぱり「可愛い」のだ。愛しくなった。最後、自転車に乗って爽やかに走り出すシーンが表している。凛々しくて素敵だ。ロングの彼女も、ショートカットの彼女も、可愛いの形を変えて進むだけ。彼女が信じていた可愛いは一体なんだったのだろう。

 

結局男は、ブスと可愛い子がいたら可愛い子を選ぶし、それを分かっているからこそ、世の中の女の子は、一番の「かわいい」を求めて努力する。好きな人に見てもらいたい、好きって言って欲しいだけなのだ。その人にとって、一番の存在にはなれないもどかしさ。おんなのこは面倒くさくて嫌い。そんなの、女に生まれた自分自身が一番分かっているから。男にこの気持ちが分かることなんて一生無い。

 

森川葵の、守ってあげたくなるような華奢さと、可愛さが、よりこの映画の説得力を増す。ハッピーエンドに終わるそこらの恋愛映画とは、違う。見事に裏切ってくれて潔い。それでも、やっぱり「可愛い」には価値がある

 

 

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

おんなのこきらい [ 森川葵 ]
価格:3630円(税込、送料無料) (2017/3/29時点)

 

スクールガールコンプレックスの世界観と太宰治「女生徒」

f:id:naoppsan:20170322225216j:plain

太宰治 女生徒を知ったきっかけは、映画「スクールガールコンプレックス」だ。まだ今ほど有名でない頃の森川葵門脇麦が主演している。私はこの映画が大好きだ。賛否両論あるらしいが、この手の作品に弱い。舞台はとある女子校の放送部。女の子同士が醸し出す特別なな世界観が眩しい。

SGCの場面の中で、門脇麦が女生徒を朗読する。その姿を遠くから見つめ何かを思う森川葵の眼差しが美しいのだ。誰もが通る10代のやりきれなさ、虚しさを代弁していた。女の子が女の子に惹かれあう要素がこの映画にはある。一番仲の良い女友達が、他の人と仲良くしていると嫉妬してしまう。それは決して恋心ではないが、それに近い女同士の難しい感情。

「女生徒」は多感な女の子の心情が、読む側の胸を刺してくる。少女が朝、目を覚ましてから、女学校、家に帰宅して夜目を閉じるまでの1日の経過を記している。どうしようも長く感じる。この本に学生の頃出逢っていたら、そうしたらあのもやもやした感情を少しだけ消すことが出来たかもしれない。大人になって改めて読むと何処か他人事で、懐かしさを覚えるから不思議だ。10代にしか分かりえない物だったのだと思う。大人になるまでの長い退屈な時間が、痛いほど分かる。女生徒の最後辺り、

 

私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ

 映画と合わせて読んでもらいたい作品だ。それにしても太宰から溢れ出る女性性堪らない。

ツイッターに溜まる下書きは価値ある言葉なのでもっと発信するべき

 私が呟くtwitterの趣味アカウントにはフォロワーが約4000人いる。属性は女優、可愛い女の子、美少女。フォロワーが超えてくると呟きにも説得力が増し、周りへの影響力は大きくなる。ここまで増えたのは、私の「好きなもの」について書き続けていたからだと思う。その好きなものから派生して新しい「好き」が増えていく。

例えば影響力のある人が「このブランドの洋服が素敵」と呟けば、そのブランドのお洋服に興味を持つし、買ってみようかな、なんて思わされる。このように消費的行動を促す人、等をインフルエンサーと呼ぶ。twitterを始めた人はどのような理由で始めたのだろうか。周りがやっているからとか、自分の思った事、感じた事を好きなような呟けるから。とか友達同士のコミュニケーションを取るためなど様々だと思う。twitterの中にも人間関係みたいな曖昧な物が存在して、そのしがらみが嫌になって結局辞める人も多い。ある日、呟きをするとフォロワーが一気に10人くらい減る現象が起こった。何が原因か分からない。でもこんな事で悩んではいられない。鍵付きアカウントで呟きゼロなんて鑑賞用なのかもしれないがちょっと怖い。大量に溜まった下書きがそのままの状態という人は多いように感じる。発信する楽しさより、怖さが勝っているのだと思う。非常に勿体無いことだと思う。自分の考えた言葉が誰かの心を動かすかもしれないし、その分野に興味を示してくれるかもしれない。

 私は女だけど可愛い女の子が好きだし、美少女の儚さに魅了される。憧れの延長なのだ。だから言葉にして発信し続けている。twitterの良い所は発信して拡散出来る点。誰に届くか分からない楽しさ。利用していくほか理由が無い。学生時代に、手帳を買って毎日欠かさず3行くらいの日記を書いていたことがある。手帳に書く文字ってtwitterでいう下書きの状態。メモだ。アナログも好きだ。友達と遊んだ時は、その時に撮ったプリクラなんかを一緒に貼り付けた。大量の文字が羅列されているツイートが流れてきた時、何か凄いパワーを感じないだろうか。私は読みたい。この人はこれを発信したいんだなって嬉しくなって好奇心に駆られる。一人一人が紡いだ言葉や文章には価値がある。ブログを始めたときの意気込みは長くは続かないことが多いが、SNSなら短い文章で世の中に何かしらの価値を提供できる。だから私は貴方のtwitterに溜まる言葉の数々を躊躇せず届けて欲しいと願う。

 

容姿に恵まれた人を羨みながらもただ遠くから眺める人生


顔立ちが美しい。ユニクロなんかをカッコよく着こなし颯爽と歩く。そんな女に度々憧れる。ユニクロなんてダサい?着ている本人にも原因があると思う。あの凛とた爽やかさを手に入れて人生を謳歌したい。しかし、あの下着を着けたって佐々木希にはなれないし、あの洋服を着た所でガッキーには到底なれない。元が違うのだから。抜群の容姿でこの世に生を受け、ただ生きているだけで周りを幸せに出来る能力がある。女の私が美人を目の前にした時、緊張し顔も強張る。私と話をして何かメリットがあるのだろうか。同時にそんな事を考えて微笑む。私は、美しい物をただ眺める側の人間なのだ。美しい人は常に何かを発信している。ブログとかtwitterとか、そんなソーシャルなアイテムでは無い。その人が佇んでいるだけで「かわいい」「美しい」「かっこいい」を無意識にばら撒いている。無意識なのか意図的なのかは到底分からないが無意識は強い。本物の美女はなんかは普段から自己顕示欲が少ない。いるだけで人が寄ってくるのだから。心底羨ましい。私達凡人が意図的に作り込んだとして、それでもあの域には近づく事が出来ない。必死に追いかけてその人から何を得る事が出来るのか。女の美しさなんて不平等だ。鏡の前に映し出される自分と向き合うのは拷問である。美女は積極的に街に繰り出したら良い。美しくある事は大事な「資産」だと思う。


引きこもりの過去と熊本地震に遭って高まった自己肯定感


私は普通科の高校に進学した。

母が車で送迎してくれていたが、何故か校門前に近づくと吐き気を催して教室に辿りつく事が出来ない。自分でも分からなかった。それは精神的にとても辛く、普通の事が出来なくなる恐怖に怯えた。高校2年生になるとかなり休む期間が増えていく。久しぶりに教室に入れてぐったりしていた時、男子から「あ、不登校児おはよう」と一言。彼にしてみればただの挨拶だったに違いない。しかし私はこの心無い一言に深く傷ついた。不登校を自覚して罪悪感に苛まれながら学校に来ている人に絶対に言ってはいけない人の言動、行動に常に敏感に反応するようになった。に帰ればベッドに直行し過去を振り返っては泣き、自分を責め立て母を心配させる。そうなると過呼吸を度々起こすようになり己の惨めさ恥ずかしさと、行き場の無い感情が私を襲い始めた。暗い部屋でスマホを何時間も眺め、今が朝なのか夜なのか全く分からない。運動もせず体重は37キロぐらいまで落ちていて体力もなくなった。これでは寝たきりのお婆さんである。いや、お婆さんより酷いかもしれない。実際同居していた86歳のおばあちゃんの方が圧倒的に健康的である。可愛いあの子のように毎日笑って生きれないのだろうと悶々と考える。田舎特有の人間関係の狭さと監視社会が余計に私を辛くさせ、高校卒業後は完璧に引きこもりになった。そして2016年4月14日。その日の夜は父親と2人、家にいた。

突然ゴーオオという地響きがなりガタガタと大きく揺れが起こる。あまりに恐ろしく私は叫びながら父に飛びついていた。昔何処かで教わった、地震が発生した時は丈夫な机の下に隠れましょう。」などという教えは役に立たない事を思い知る。食器の割れる音と、鳴り響く恐怖の緊急地震速報に必死に耐えるしかなかった。震度7レベルは物に捕まらないと人が吹き飛ばされるような勢いだ。余震レベルでも震度5〜6なのが本当に恐ろしい。途中で母と妹が家に帰ってきた。母が運転していた車は突然揺れにハンドルを取られ、コントロールするのに必死だったらしい。その日の夜は小屋に車を置き、家族5人で車中泊をする。何が起きたか分からない恐怖と夜の静けさに身体が震えて眠れなかった。しかし家族みんなが今ここに居るという事が少し不安を消してくれた。一人暮らしの人たちはどんなに怖かったのだろうと想像を掻き立て眼を閉じる。 夜が明けて家に入るともう悲惨である。ガラスは割れていて、足の踏み場が無い。柱が傾き、家自体も傾き始めている事に驚きを隠せない。みんなで必死に片づけ始めるが終わりが見えない何かがあった。母はその疲労が原因で体調を崩しまい車に戻って眠ってしまった。水もガスも止まってしまったので、とりあえず水が出る地区に足を運ぶ。 かろうじて取り出せる食べ物や飲み物を危険に晒されながら必死にかき集めた。

その日、庭で食べたおにぎりは涙が出る程美味しく感じ、食べ物がある事に深く感謝した。16日の夜が近づく。今夜またあの恐ろしい地震が来るのではないか。嫌な予感がした。深夜を周り始めた頃、ああ、もう今日は寝よう。と車の中で毛布に包まり横になった。その瞬間訳の分からないゴーーオオオオという地響きとともに、ジェットコースターか何かに乗っているような錯覚する程の恐ろしい揺れが来た。鳴り響く緊急地震速報「死にたくない」この地球がこのまま爆発してしまうのでは?私はこの若さで死んでしまうのか、待って、まだ何もしていない。引きこもっていただけの人生を後悔し、泣いた。人間の思考は不思議だ。あれだけ死にたいと考えていた高校時代と今までの生活。生死を決定してしまうような出来事に直面した時、「死にたくない」と強く思った事。自分に驚いた。私は「生きたい」のか?こんな地震で死んでたまるかと思った。そんな事を悶々と考えているうちにあっという間に朝が来て、外に出た。近所の家からガス漏れの匂いと、大量の瓦で道が塞がれていた。あの重いお墓の石もバラバラだ。もっと早く近くの小学校に避難していれば良かったのに。私の家は田舎な上、山奥に建っていたので孤立地域になりかけた。急いで瓦をどかし車道を確保する。寝不足と寒さで皆身体はクタクタだったが、生きるか死ぬかの私たちは「生きるために」動いた。近く小学校に避難したが、その小学校すら危険な状態で他の避難場所に誘導される。目の前で地割れする光景を目の当たりにし、自然の脅威に圧倒された。最終的に私たちは家から遠く離れた別の小学校で約2週間の避難生活が始まる。このような災害でtwitterなどのSNSが非常に役だった。全く連絡を取っていなかった地元の友達のLINEグループに参加。みんなが生きていた事の安堵と久しぶりに連絡を取るむずがゆさが交差した。こんな事が無ければ、出来れば連絡を取りたくない。私は面倒臭い人間だ。初めて避難所で支給された支援物資のコンビニおにぎり1個が心とお腹に染み渡る。

ダンボールで間仕切りをし、プライベートな空間を守る。家族5人で。の家族が色々な食料を分けてくれた。赤ちゃんの泣く声が体育館に響く。あの赤ちゃんは今体験しているこの大災害を将来思い出すだろうか。いや覚えていないだろうな。なんて考えてながら眠りにつく。必ず夜9時には消灯されてしまう。「被災者」なんて縁遠いものだと思っていた自分が当事者になって分かった、生きているだけで私には価値があるという事。熊本地震は、今この時を生きていることを強く感じさせてくれた体験であり、私の自己肯定感を高めてくれた。とても感謝している。家に留まってうじうじしている私を外に連れ出してくれたのだ。結果的に私の家は全壊判定を受けて解体し家は無くなったが、全然悲しくない。仮設住宅の生活に移ってからは精神的に安定している。自然は私達を苦しめたが、私の心を救ってくれた。だから今日も生きたいと強く思う。